Shadow

ぼくの父は
田舎の貧しい兼業農家の次男に生まれ
中学を卒業するとしばらく畑仕事を手伝っていたが
東京下町のテーラー(紳士服の仕立屋)に
住み込みで働くようになった

10年の下積みを経て姉夫婦の母屋の2階を間借りし
独立した

手に職をつけさせたいと願った祖父も喜んだにちがいない

けれども時代は高度経済成長に入っていて
大量生産大量消費の世の中にあった

オーダーメイドの紳士服は一部の富裕層
しかも年配の「背広は仕立ててもらうもの」との
固定化された考えをもつ希少な顧客だけが頼みだった

父はぼくが10才になる前にテーラーを廃業した

それから職を転々とする
大工(見習い)や工場で働いたりして
ステンレス資材問屋に落ち着いた

けど正社員ではない
個人事業主として資材輸送を請け負う常用業者だ

家業を継ぐことを宿命付けられた人たちに比べ
兼業農家の次男だった父は自由に仕事を選べることができたが
それは裏を返せば「なんでもできるがゆえになにもできなかった」
一人と言える

10年の修行は決して楽ではなかったに
ちがいない
いや苦労の日々だっただろう
その苦労は未来に活かすことが
できない苦労のまま終わった

世の中の見えないナニかは
そんな父子のささやかな望みさえ
まるで見えないほどの小さなことのように
飲み込んでいった

82才を過ぎた今は
まるでそんな絶望や挫折など
無かったかのように淡々と生きている

それが何よりかもしれない…

「ねえ。」

「なに?」

「話し終わった?」

「うん…」

「おなかすいた!」

「よし、じゃーパスタでも茹でようか?」

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